オヤジギャグと言えばダジャレ、ダジャレと言えばオヤジ・・・。しかしなぜでしょう。
「ガウディの建築物は長い歳月を経ているので、修復方法をさぐるだファミリア。」とか「マチュピチュは南米にアンデス。」などと言っても、女性は笑ってくれません。
そう言えば、ご年配の女性もダジャレを言いません。つまり年齢より性別の問題でしょうか。これは日本に限らず、海外ドラマや、アメリカの知人でも、ダジャレを発するたびに、女性にウンザリされています。
そこで一つの仮説を立ててみました。それは「言葉とは男性にとってオモチャとなりやすいが、女性にはオモチャとなりにくい。」というものです。
オモチャとはもちろん遊ぶモノや道具を意味する一方で、遊びには定義があって、何か目的があってはいけないのです。つまり遊ぶことそのものが目的となります。
古代より男性にとって声は道具として機能してきました。例えば狩猟をしていたころ、声は仲間との合図であり、時には吠えて獲物を威嚇(いかく)していたでしょう。その道具を使って遊ぶわけです。
かたや女性の場合、声は家族に対する愛と絆(きずな)の現れで、とても大切に扱う傾向にあります。あるいは助けを呼ぶ時の悲鳴でもあります。
この違いは、さまざまなオモチャの中で、「何故男の子は乗り物や武器を選び、女の子は人形や縫いぐるみで遊ぶのか。またその逆転パターンが、あまり存在しないのか。」の理由を示しているように思います。
自動車は男性にとって、たいてい実用的オモチャですが、女性にとっては移動用機械でしかない場合が多く、一方お人形は女の子にとって遊ぶ「モノや道具」以上の、愛すべき生きた存在です。
つまりダジャレにはほとんど愛が感じられないため、女性にとっては、言葉をオモチャとしてだけ扱うことへの抵抗感となるのではないでしょうか。
男女の感じ方の違いは、差別的誤解も生みだしました。20世紀になっても、女性やアフリカ系民族の脳は、白人男性より小さく劣っていると、解剖データまで添えられた学説が、広くまかり通っていました。
ではオヤジがダジャレを発する時、誰かに笑ってほしいのかといえば、必ずしもそうではありません。先程の遊びの定義にもあるように、オヤジはただ言葉遊びがしたいだけです。
実際にオヤジは、口に出す以上のダジャレを心の中で生み出しながらも、今ここでそれを言ったら別の意味で笑われる、あるいは座が白けるであろうと、ガマンしています。
しかし年をとるとともに魔が差して、ついついその面白さを他人と共有したくなってしてしまうわけです。まるで私が真空管アンプにおける世界初の理論「HVTC」のすばらしさを、しつこく説明したがるように。
これもやや問題ですが、さらに問題なのは、これをコミュニケーションの手段として使ってしまおうという、遊びのルール違反が起きてしまうことです。
つまり自分の遊びを、合意なく相手の前で展開し、あわよくばコミュニケーションをはかろうというシチュエーションに、女性は更なる不快感を感じるのではないでしょうか。
どうやら、ダジャレは、もはやハラスメントにもなり得るようで、私はこれを「ダジャレハラスメント」と名付けました。略称は「ダジャハラ」です。
そこでダジャハラを起こさないために、立派な紳士の身だしなみとして、どうダジャレを修行すべきか考えてみました。
まずダジャレは自分と同等か、目上の人にのみ使うよう心掛けます。これにより相手に笑いを強要するようなシーンが減り、一気にハードルが上がります。
次に大事なのは、ダジャレを自虐敵シチュエーションに使わないことです。というのもダジャレは自然な脳の活動であって、オリジナルのダジャレは自然回帰そのものだからです。
それなのに自虐的に使うと、それはある種の居直りとも受け取られ、逆に不快なイメージをあたえてしまうかもしれません。
これではダジャレの社会的な地位が下がり、それほど高くないオヤジの地位も下がり、ひいてははこれが迷惑行為と位置づけられるという、残念な結果になりかねません。
ダジャレにブームやステイタスは必要なく、公園の砂場で砂山を作るがごとく、無心で遊べばよいのです。
一方でダジャレが高く評価されるジャンルがあって、それがヒップホップのラップです。ここでは韻を踏むというナイスな言い回しで、正当化されているのです。
そして私がダジャレをやめる時、それは私よりもはるかに面白いダジャレを、AIがしゃべりだす時です。
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